
画像:猿沢池越しの興福寺五重塔 筆者撮影
奈良・興福寺の南に広がる「猿沢池」は、多くの方に知られた名所です。
その池の北西の隅に、ひっそりと佇む小さな神社があることをご存じでしょうか。
今回は、この神社の由来や特徴、そして少し変わった点についてご紹介します。
この神社の不思議ポイント
興福寺の階段を南に下りると、すぐ目の前に「猿沢池」が現れます。
天気の良い日には、外国人観光客をはじめ多くの人が池のほとりで、景色を楽しみながらひと休みしています。
池越しに望む興福寺の五重塔や南円堂の風景は格別で、人気の撮影スポットにもなっています。
ただ現在は、五重塔が令和の大修理中のため覆屋に包まれており、この景観がしばらく見られないのは残念です。
猿沢の池の北西隅、現在スターバックスがあるあたりのすぐ近くに、今回ご紹介する神社があります。
その名は、采女(うねめ)神社といいます。

画像:今回紹介する采女神社の全景 筆者撮影
多くの神社では、参拝者が自由に鳥居をくぐり、お社にお参りすることができますが、この采女神社は少し様子が異なります。
入り口には施錠された扉があり、普段は中へ入ることができません。
筆者は猿沢池の周辺を歩く際にたびたびこの神社の前を通っており、ずっと不思議に思っていました。
神社の名称は、塀と白壁の建物に掲げられた「えんむすび 采女神社」という看板で、ようやく知ることができました。

画像 : えんむすび采女神社の表記 筆者撮影
普段は扉が閉じられているため、塀の隙間から中を覗いてみると、ある不思議な点に気づきました。
朱塗りの鳥居と奥に建つお社をよく見ると、一般的な神社とは異なる配置になっていたのです。
通常、鳥居をくぐると正面にお社が見えるのが一般的ですが、采女神社ではお社が鳥居に背を向けて建てられていました。
この変わった向きにはどんな理由があるのでしょうか。

画像:采女神社 鳥居に背を向けて立つお社 筆者撮影
采女神社のお社が、鳥居に背を向けて建てられている理由
平安時代に成立した歌物語『大和物語』には、采女神社の由来に関する伝承が記されています。
奈良時代、天皇の寵愛を受けていた采女(うねめ : 後宮で天皇の給仕をする女官)が、やがてその寵愛を失い、悲しみのあまり猿沢池のほとりの柳の木に衣を掛け、池に身を投じたといいます。

画像 : 采女イメージ 草の実堂作成(AI)
この采女の霊を慰めるために建立されたのが、現在の采女神社です。
そしてお社が鳥居に背を向けて建てられているのは「采女が入水した猿沢池を、あの世から見続けることがないように」との配慮からだとされています。
また一説では、最初は通常通り池を正面に向けて建てられていたものの、采女の霊がその向きを嫌がり、一夜のうちにお社の向きが変わったという伝承も残っています。
小さな神社ながらも、このような物語が語り継がれていることに、奈良という土地の奥深さをあらためて感じさせられます。
一方で、悲恋の物語が縁起の采女神社が、なぜ「縁結びの神社」として信仰を集めるようになったのかは、少々疑問が残ります。
采女神社の祭礼などについて
現在、采女神社は春日大社の境外末社として管理されています。
塀の中をのぞくと、縁結びの絵馬が数多く奉納されており、「縁結び守り」と呼ばれる授与品も用意されています。
ただし先に述べた通り、通常は扉が閉ざされており、参拝や授与品を受けることができるのは祭礼など限られた機会に限られています。
そのため「縁結び守り」は、観光客にとってはなかなか手に入らない“幻のお守り”といえるかもしれません。
この神社で最も知られている祭礼が、毎年中秋の名月に行われる「采女祭」です。
采女の霊を慰め、人々の幸福を祈るこの行事は、幻想的な雰囲気に包まれた奈良の秋の風物詩です。

画像 : 采女祭にて三条通りを練り歩く、花扇奉納行列 public domain
夕刻からは「花扇奉納行列」が始まり、2メートルほどの花扇を中心に、稚児たちや、御所車に乗った十二単姿の花扇使らが市内を練り歩きます。
18時からは春日大社の神職による神事が執り行われ、花扇が采女神社に奉納されます。
続く19時からは、祭りのクライマックス「管絃船の儀」が猿沢池で行われます。
雅楽の調べが流れるなか、花扇や花扇使を乗せた2隻の龍頭船・鷁首船が、流し灯籠の間を静かに巡り、最後に花扇を池に投じます。

画像 : 采女祭 管絃船の儀 CC BY-SA 3.0
幽玄な光と音に包まれた、奈良らしい雅なひととき。
機会があれば、ぜひ一度は目にしてみたい行事です。
もう一つの采女伝説
実は、采女神社は福島県郡山市にも存在し、当地にも采女伝説が伝えられています。
奈良の物語と共通点を持ちながら、独自の展開を見せており、その内容は以下の通りです。
今からおよそ1300年前、奈良の都から郡山に派遣された葛城王(かつらぎおう : 後の左大臣・橘諸兄)は、巡察使として地方の実情を視察していました。
当時、郡山の地では凶作が続き、朝廷への貢納すらままならない状況にありました。困窮する里人たちは、王に窮状を訴えましたが、その願いは聞き入れられませんでした。

画像 : 橘諸兄(たちばなのもろえ)『前賢故実』より public domain
そんな折に接待の場で、王は里長の娘・春姫を見初めます。
そして春姫を帝の采女として差し出すことを条件に、三年間の課税免除が認められたのです。
春姫には愛する許婚がいましたが、郷土のため、涙を呑んで奈良の都へと旅立ちました。
やがて帝の寵愛を受けるようになった春姫でしたが、心の中では故郷と許婚への想いが募るばかり…
ついに猿沢池に身を投げたと見せかけて脱出し、郡山へと戻りました。
しかしそこで彼女を待っていたのは、すでに亡くなった許婚の知らせでした。
悲しみに沈んだ春姫は、その許婚が命を絶った「山の井の清水」へと身を投げ、後を追ったと伝えられています。
この物語に登場する春姫の霊を慰めるため、有志の手によって昭和32年に建立されたのが、郡山の采女神社です。
奈良の采女伝説と呼応するような逸話が、この地にも伝わっていたのです。
奈良の猿沢池にたたずむ采女神社の不思議な構造と、その背後にある切ない伝説。そして、遠く離れた郡山にも同じ采女の物語が受け継がれていることは、歴史がつないだ不思議なご縁を感じさせます。
時を越えて語り継がれる采女の物語は、今もそっと私たちの心に語りかけてくるようです。
参考 : 奈良市観光協会『采女神社』『大和物語』他
文:撮影 / 草の実堂編集部
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